JOURNAL

HOHENBERGIA IN THE EARLY DAYS Pt.4/Atsushi Sato

2016.04.03

HOHENBERGIA IN THE EARLY DAYS/Atsushi Sato

Part 4
『The story goes to USA –舞台はアメリカへ-』

さて、最後はアメリカで最初にホヘンベルギアを栽培した人を探してみよう。Part 1で登場したフォスターによると、フロリダにおける最も初期のコレクターの一人であるチャールズ・シンプソンが1923年に出版した著書の中でペンデュリフローラについて言及していたとのこと。さらに1939年にはフォスター自身がブラジルのバイーア州でステラータを採取し、フロリダに持ち帰ったことを記している。さらにザルツマニーも持ち帰っており、後ほど彼の栽培下で開花したことも報告している。また、海岸線を埋め尽くす単一種のブロメリア群落を見つけており、そこから採取した標本は翌年にリットラリスとして記載されている[1]。

ザルツマニーは最大のホヘンベルギアであり、開花時の高さは3mにも達する[2]。リットラリスは砂浜に群生するかなり特異な生態をしており[3]、アメリカのカタログにたまに登場するものの、国内で状態良く栽培することは容易ではない。彼はその他にもブランケティーとカティンガエをフロリダに持ち帰ったらしいが、殆どはフロリダの環境に合わなかったらしい[1]。ただ、1953年に国際ブロメリア協会が発行した栽培マニュアルにブランケティーが掲載されていることから[4]、この種はうまく順化させることができたようだ。一方、アメリカで最初に発行されたブロメリア図鑑にはホヘンベルギアは掲載されていない[5]。1940代後半から1950年代にかけてフォスターが何種かのホヘンベルギアをアメリカに導入したが、その普及は遅かったことがうかがえる。ちなみに、フォスターが運営していたナーサリーのカタログにより、彼がステラータを販売していたことが分かった[6]。このステラータは彼が採取した株に由来するのか、Part 1~3で明らかにしたヨーロッパ経由の株なのかは不明だが、アメリカでホヘンベルギアが販売された最も初期の記録の一つだろう。

フォスターはホヘンベルギア以外にも多くのブロメリアを最初にアメリカに導入した人物として知られている。さらにはブロメリアの収集や交雑をアメリカで行ったのは彼が初めてであると見なされ、その功績から『ブロメリアの父』とまで形容されている。しかし、最近の研究により、彼が活躍する以前にセオドア・ミードとヘンリー・ネーリングという2人がブロメリアの導入と交雑に取り組んでいたことが明らかにされた[7]。そこで、ネーリングがミードに宛てた書簡の約30年分の写し[8]を入手し、ホヘンベルギアの痕跡を探してみることにした。

さて、中身を概観してみたところ、なかなかに面白い。「フランスからブロメリアを送ってもらったが、次に同じことしたら$5,000払ってもらうって農務局から言われたよ。農務局なんか予算切られてしまえ」なんて文句が綴ってあったりする。読み進めると1924年1月10日付に核心に迫る文章を発見した。「ホヘンベルギア・“ソアリー”と“シンプソニー”…がウチのヤシと赤カエデに大きな塊となって着生している。思うに君(注:ミード)はこれらの大型種を所有しているだろうが、もし持っていなかったらシンプソンに頼むと良い。何とかしてくれるだろうから」とのことである。これでシンプソンとミード、ネーリングの3人が繋がった。“シンプソニー”はフォスターにより、ペンデュリフローラを指すことが分かっている[1]。さらに1925年12月21日の記述に、「君にエクメア・ヒストリクス送ったことあったかな?…いい感じのブロメリフォリアとグロメラータもあるけど」とあった。エクメア・グロメラータはホヘンベルギア・ステラータの異名同種である。よって1925年にネーリングがステラータを栽培していたことが確実になった。また、場合によってはミードに送った可能性も示唆された。

以上より、1923年にシンプソンがペンデュリフローラ(ウィットマッキオプシス亜属)を、1925年にネーリングがステラータを栽培していたことが分かった。また、1939年にフォスターがステラータ、ブランケティー、ザルツマニー、リットラリス、カティンガエ(以上ホヘンベルギア亜属)をアメリカに持ち帰ったことが分かった。

なお、ミードの死後、彼の交雑台帳と多くの交雑種を自分のコレクションに加えたにも関わらず、フォスターは多くの自著の中でミードとネーリングの業績には一度も触れなかった。結果として2人のブロメリア界への貢献は忘れられ、アメリカに最初にブロメリアをもたらしたのはフォスターであるという誤った認識が長く残ることとなった[7]。いずれにせよ、シンプソン、ミード、ネーリング、フォスターはフロリダの住人であり、そこがアメリカにおけるブロメリア勃興の地であることは確かである。現在もフロリダにブロメリアのナーサリーが多い理由の一つと言えるのではないだろうか。

END

[1] Foster, M.B. (1956) Brom. Soc. Bull. 6: 53-55.
[2] Smith, L.B. & Downs, R.J. (1979) Fl. Neotrop. Monogr. 14: 1493-2142.
[3] Foster, M.B. & Foster, R. (1945) Brazil, orchid of the tropics. 314pp.
[4] The Bromeliad Society, Inc. (1953) Bromeliads a cultural handbook. 64 pp.
[5] Wilson, R.G. & Wilson, C. (1963) Bromeliads in cultivation, Vol. 1. 125 pp.
[6] Foster, M.B. (1949) Bromeliads and other fascinating tropical plants from the collection of M.B. Foster, No.3. 20 pp.
[7] Butler, P. (2012) J. Brom. Soc. 62: 214-223.
[8] Lineham, T.U. (1985) Letters from Henry Nehrling to Theodore L. Mead (unpubl.). 38 pp.




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1939年にフォスターが採取したホヘンベルギア・ミノールのホロタイプ。上記のブランケティーやカティンガエと異なり、本種はアメリカには持ち帰っていないか、順化に失敗したようだ。本種はフォスターが採取した標本以外は知られておらず、再発見もなされていない幻のホヘンベルギアである。ハーバード大学グレイハーバリウム所蔵(© The Gray Herbarium)




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1939年にフォスターが採取したホヘンベルギア・リットラリスのホロタイプ。焼けつくような強光の下、海抜0m付近の砂浜で群落を構成していたという。付された写真から、株元にサボテンが生えているのが分かる。ハーバード大学グレイハーバリウム所蔵(© The Gray Herbarium)




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1953年に国際ブロメリア協会が発行した栽培マニュアルに掲載されたホヘンベルギア・ブランケティー。1939年にフォスターが採取した株に由来すると思われる。本種のように半世紀も前にその姿が知られていた種はほとんどない。




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フォスターが発行したナーサリーカタログ第3号(1949年~1950年版)。いつからいつまでカタログが発行されていたのかは不明である。今となっては非常に貴重な記録であろう。ステラータが大きさの違いにより$2、$3、$7.5の価格で売られている。