HOHENBERGIA IN THE EARLY DAYS/Atsushi Sato
Part 2
『The mystery of M.Porte -M.ポルトの謎-』
Part 1で紹介したペンデュリフローラは、日本で人気のあるブラジル産ホヘンベルギアと異なり、ジャマイカやキューバに産する別亜属(ウィットマッキオプシス亜属)であった。では、ブラジル産ホヘンベルギアの仲間はいつ、誰によって導入されたのだろうか。
マルフォード・フォスターによると、1860年頃にM.ポルト(M.Porte)という人物によってホヘンベルギア・ステラータがヨーロッパに導入されたらしい[1]。なお、本種はブロメリア図鑑『ブルーミング・ブロメリアズ』において、「最も花序が美しいホヘンベルギア」とされている[2]。また、最も分布域が広い種としても知られ、ブラジルに加えトリニダード・トバコやヴェネズエラにも隔離分布している[3]。
フォスターの記述に出典は明記されていなかったが、『ブロメリア科ハンドブック』のエクメア・グロメラータの項にまったく同じ記述があった[4]。なお、著者のベイカーはステラータとエリスロスタキスを本種の異名同種としている。さらに、ポルテア属の名はこの人物にちなむこと、この人物によって数種のブロメリアが初めて導入されたことが記載されていたが、その正体についての情報はなかった。さて、M.ポルトとは一体誰なのだろうか?
国際ブロメリア協会の幹事であったパルマーは、ポルテア属の由来をマリウス・ポルト(Marius Porte)としている[5]。この人物こそM.ポルトなのだろうか。一応グラントとジルストラの文献のポルテア属の項を見てみると、「由来は不明だが、おそらくイタリア人植物学者のピエトロ・ポルト(Pietro Port) (1832-1923)か、門や扉を意味するラテン語portaにちなんで名づけられたのだろう」とのことである[6]。マリウス・ポルトに加え、ピエトロ・ポルトの登場によりまたまた混乱してきた。M.Porte=Marius Porteなのか、Pietro Portに敬称の Monsieur (ムッシュー)をつけて、さらに綴りを間違えたM.Porteなのか分からない。そこで、再び植物学者インデックス[7]にあたってみたところ、M.ポルト=マリウス・ポルトとなっていることが分かった。オークズ・エイムスラン腊葉標本館に彼が採取した標本が2点保存されていることから、ランを専門としていたのかもしれない。ただ、インデックスでは彼の活躍したフィールドがブロメリアの自生地である南米ではなく、シンガポールとフィリピンになっている点がひっかかる。さらに調査を進めたところ、雑誌『ベルギーの園芸』の中に、なんとマリウス・ポルトの伝記を発見した。それによると1859年までブラジルに滞在しつつ多数の動植物を採集し、その後はシンガポールとフィリピンに渡り、彼の地で1866年に没したという[8]。死亡年もインデックスと一致し、伝記中ではランの世界に多大な貢献をしたことが記されていた。文末に付記されていた彼による導入種リストにステラータの名はなかったが、ここまで来るとM.ポルトはほぼマリウス・ポルトで間違いないだろう。
一方、インデックスによると、ピエトロ・ポルト(Pietro Port)に該当する者は存在せず、つづりの違うピエトロ・ポルタ(Pietro Porta)が見つかった。グラントとジルストラの言うピエトロ・ポルト(Pietro Port)とインデックスのピエトロ・ポルタ(Pietro Porta)の生没年が一致することから、グラントとジルストラはつづりを間違えた可能性が高い。いずれにしてもステラータの導入とは関係ない人物のようである。前回のケスネリア属のこともあり、グラントとジルストラの文献の正確性が疑われる。
そんな中、海外のコレクターからアンティークプリントを買わないかとのメールをもらった。主に18〜19世紀に作成された植物図譜である。リストの中にちょうどステラータもあった。1867年の『カーチス氏植物学雑誌』が出典のようである。確認してみたところ、本文に興味深い記述を見つけた。「本種(エクメア・グロメラータ=ステラータのこと)は1863年に現地のウィリアムス氏から送られ、そして(キュー植物園の)ロイヤルガーデンのパームハウスにて同年3月に開花した」とのことである[9]。ベイカーはステラータの導入者はM.ポルトだと言っていたが、間違っているのだろうか。年代もほぼ一致する点も判断を迷わせる。あきらめずに調査を続けたところ、ついに核心に迫る資料を発見した。マルセイユ園芸学協会の事務局長であったアドリアン・シカールが著したマリウス・ポルトの詳細な伝記である。しかも、本人と思われる写真付き。本文にもしっかり、M.Porteの表記があり、M.ポルト=マリウス・ポルトが確定した。文末の導入種リストには、1859年にパリに導入された種としてエリスロスタキスの名があった [10]。どうも『ベルギーの園芸』の伝記は、この伝記をつまみ食いしただけのようである。また、この事実を補足する別の資料も発見した。「(エリスロスタキス=ステラータのこと)が185?にM.(ムッシュー/ Monsieurの略だろう)マリウス・ポルトによって生きたままヨーロッパに導入された」とのことである[11]。ここからもM.ポルトがマリウス・ポルトであり、彼がエリスロスタキスの導入者であることが分かる。
しかし、その後に見つけた別の資料により、ふたたび混乱が引き起こされることとなった。1855年の『園芸学レヴュー』によると、「(エリスロスタキスが)1850年にM.ポルトによってブラジルから(パリの)博物館に送られた」とのことである[12]。何と上記の伝記にあった導入年よりも9年も早い。1859年と1850年、一体どちらが正しい導入年なのだろうか。この文献の出版年が1855年であることから考えると、1859年の出来事を記載することは不可能である。また、1864年の『帝国中央園芸協会雑誌』の記述にも「ブラジルのバイーア州で発見され、M.ポルトによって導入されたこの美しい植物(エリスロスタキス=ステラータのこと)は1855年の4月に初めて開花、1860年の4月にパリの博物館で開花したことを再度確認した」とあった[13]。このことからも本種の導入年は1850年説が正しいことが推測される。マリウス・ポルトの伝記中の年は0と9のタイプミスなのかもしれない。
つまり、エリスロスタキスをエクメア・グロメラータの異名同種としていたベイカーは、エリスロスタキスの情報をエクメア・グロメラータのそれとして記載したのであり、『カーチス氏植物学雑誌』の記載はエクメア・グロメラータそのものの情報だったのである。導入当時はそれぞれ別種と考えられていたためややこしくなっていたが、別の名前(エリスロスタキス=エクメア・グロメラータまたはエクメア・グロメラータ)で呼ばれていた同じ種(今日のステラータ)がほぼ同じ時期(1850年または1863年)に別な人物(M.ポルトまたはウィリアムス氏)によって別々(パリまたはロンドン)に導入されたというのが真相であろう。
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参考文献
[1] Foster, M.B. (1956) Hohenbergia in horticulture. Bromeliad Society Bulletin 6: 53-55.
[2] Baensch, U. & Baensch, U. (1994) Blooming Bromeliads. Tropic Beauty Publishers, Nassau. 272 pp.
[3] Filho, J.A.S. & Leme, E.M.C. (2007) Fragments of the Atlantic Forest of Northeast Brazil. Andrea Jakobsson Estúdio Editorial Ltda., Rio de Janeiro. 416pp.
[4] Baker, J.G. (1889) Handbook of the Bromeliaceae. George Bell & Sons, London. 243 pp.
[5] Palmer, E.H. (1964) Nomenclature. Bromeliad Society Bulletin 14: 59-61.
[6] Grant, J.R. & Zijlstra, G. (1998) An annotated catalogue of the generic names of the Bromeliaceae. Selbyana 19: 91-121.
[7] ハーヴァード大が運営する植物学者のデータベース(http://kiki.huh.harvard.edu/databases/botanist_index.html)
[8] Truffaut, A. (1869) Notice sur Marius Porte, Voyageur botaniste, conchyliologiste et paléontologiste. La Belgique Horticole 19: 229-232.
[9] Hooker, J.D. (1867) Aechmea glomerata. Curtis’s botanical magazine 93: pl.5668.
[10] Sicard, A. (1866) Notice sur Marius Porte, Voyageur botaniste, conchyliologiste et paléontologiste. Typographie et Lithographie Arnaud, Cayer et Cie, Marseille. 15 pp.
[11] Brongniart, A. (1864) Hohenbergia erythrostachys. L’illustration Horticole 11: 51-52.
[12] Decaisne, J. (1855) Notice au sujet de quelques Broméliacées. Reveu Horticole Ser. 4. 4: 241-247.
[13] Brongniart, A.T. (1864) Notice sur l’Hohenbergia erythrostachys. Journal de la Société impériale et centrale d’horticulture 10: 385-392, Planche XVIII.
ホヘンベルギア・ステラータ/写真はヴェネズエラ産。広い分布を示す半面、地域差や個体差は小さいため同定は容易である。
(Courtesy of Derek Butcher, Collection from Matthias Asmuss in Venezuela)
M.ポルト=マリウス・ポルトの肖像写真/伝記によるとステラータの他、ポルテア属、ビルベルギア属、クリプタンサス 属、エクメア属などにも彼が初めて導入した種があるようだ。また、アラゴアス州で巨大なアルマジロの化石を見つけたり、バイーア州でコレラ患者の治療にあたったり、さらには現地人をパリに連れてきたりなど、ブラジルでの逸話がいくつか残っている。その後フィリピンに渡り、貝類の採集に精を出したが、現地で流行していた赤痢に罹病し、この世を去った。
フランス国立図書館蔵 (Gallica-Bibliothèque numérique)
1864年の『帝国中央園芸協会雑誌』に付されたホヘンベルギア・エリスロスタキス(ホヘンベルギア・ステラータ)の図/ややこしいことに、ほぼ同時期に別な人が別な名前で別な場所にステラータを導入した模様。こちらはマリウス・ポ ルトによって導入されたほうと思われる。本文によると、1815年の王立植物園には6種類しかなかったブロメリアが1843年には40種類を数えるまでになったという。
フランス国立図書館蔵 (Gallica-Bibliothèque numérique)
『カーチス氏植物学雑誌』に付されたエクメア・グロメラータ(ホヘンベルギア・ステラータ)の銅版画/別名として“密集して咲くエクメア(crowded-flowered Aechmea)”の名が付けられている。写真は1867年に出版された第93巻の第5668図。銅版画に彩色が施されている。