現在鋭意制作中の”TANKS” -HOHENBERGIA BOOK-。
著者である佐藤 淳氏は、実際の栽培経験を重視する一方、国内外で出版されたブロメリアに関する書籍のほぼすべてを所有するほどの文献派でもあります。
その膨大な資料から、分類や由来を整理し、まだあいまいな部分の多いホヘンベルギアに関する情報のスタンダードとなる本を作ろうと、綿密なリサーチを行っています。
ホヘンベルギアの代名詞的な存在である、あのレオポルド-ホルスティも、実は本物と推定できる個体はかなり珍しい、と佐藤氏は言います。また、sp. Sandras mountain やsp. 357などの謎の未記載種についても鋭く考察しています。
本書の制作過程において、佐藤氏がふと抱いた、「ホヘンベルギアを最初に栽培したのは一体、誰なのだろうか? またそれはいつなのだろうか?」という疑問。それらを明らかにする過程で浮かび上がったストーリーを、WEBサイト限定の連載記事として寄稿していただきました。
HOHENBERGIA IN THE EARLY DAYS/Atsushi Sato
Part 1
『In search of early growers -最初の男-』
いつ誰が最初にホヘンベルギアを園芸界に導入したのか。それを特定することは究極的にはもちろん不可能だが、古今の文献をたどりながらその答えを探してみたいと思う。
まず、その答えに近い記録は、ブロメリア研究に多大な貢献をしたマルフォード・フォスターによる「1843年にミスター・ケスネルによってホヘンベルギア・ペンデュリフローラが、ル・アーヴル(フランス北部の街)にて栽培されていた」という一節に見ることができる [1]。フォスターはこの情報の出典を記載していないが、英語で著された最初のブロメリア書である『ブロメリア科ハンドブック』をひも解くと、彼が参照したと思われる記述を見つけることができた。現在ではペンデュリフローラの異名同種とされているエクメア・ライティーの項に、「ケスネルが1843年にル・アーヴルにて育てた個体-ハヴァナ産-由来の標本がパリ自然史博物館にある」と記されていた [2]。どうやらケスネルなる人物によって170年以上も前にペンデュリフローラが栽培されていたらしい。
ここで気になるのはケスネルの名である。ブロメリア愛好家ならすぐにケスネリア属の名が頭に浮かぶだろう。そこで、その名の由来を調べてみると、アラスカ大学(当時)のグラントとユトレヒト大学のジルストラの共著による文献に記述があった。「由来は不明だが、おそらくフランス人のフランソワ・アレクサンドル・ケスネ (1742-1820) にちなんで名づけられたのだろう」とのことである [3]。ケスネルではなくてケスネ? そうなると、この2人は、果たして同一人物なのか否か、という新たな疑問が起こってくる。そこでハーヴァード大の植物学者インデックス [4]にあたってみたところ、ケスネはそれらしき人が見つかったのだが、誕生年は上記と異なり1752年となっていた。一方、ケスネルに関しては何の情報も得られなかった。
そんな中、愛好家ならば知る人ぞ知るブロメリアの研究家”アンクル・デレク(デレクおじさん)”こと、デレク・ブッチャーから鍵となる情報を得ることができた。デレクおじさんは、なんとまったく情報がなかったケスネルのことを知っている、という。さっそく送ってもらった画像を読み解いたところ、ベルギーのリエージュ大学の植物学教授であったエデュアール・モレンが編集した雑誌『ベルギーの園芸』の1ページであることが分かった。ケスネルに関する記述部分をかいつまんで引用すると、こうだ。「…同じ植物(ケスネリアの一種のこと)がフランス領ギアナのカイエンヌの領事であるケスネルに送られた…結果としてM.(ムッシュー/ Monsieurの略か?)ケスネルに献名されたのだろう」[5]。ケスネの誕生年はどちらが正しいのか分からないが、グラントとジルストラによる文献はケスネルを、似た名前のケスネと取り違えていた可能性がある。つまり“ケスネリア属の名の由来となった(可能性が高い)ケスネルが、1843年にペンデュリフローラを栽培していた”ということなのではないだろうか。最初の栽培者はこのケスネルで、最初に栽培されたホヘンベルギアはペンデュリフローラ。現状、文献で確認できる範囲ではそういう仮定に至った。植物学者インデックスにケスネルの名が見当たらなかった理由は、彼はそもそも植物学者ではなかったためかもしれない。
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partPart 2/The mystery of M.Porte -M.ポルトの謎-
参考文献
1 Foster, M.B. (1956) Hohenbergia in horticulture. Bromeliad Society Bulletin 6: 53-55.
2 Baker, J.G. (1889) Handbook of the Bromeliaceae. George Bell & Sons, London. 243 pp.
3 Grant, J.R. & Zijlstra, G. (1998) An annotated catalogue of the generic names of the Bromeliaceae. Selbyana 19: 91-121.
4 ハーヴァード大が運営する植物学者のデータベース(http://kiki.huh.harvard.edu/databases/botanist_index.html)
5 Morren, E. (1882) Histoire et description du Quesnelia rufa, (Gaud.) de la Guyane et du Brésil. La Belgique Horticole 32: 115-118.
<トップ画像解説>
ホヘンベルギア・ペンデュリフローラ/園芸界に初めて導入されたと思われるホヘンベルギア。本種は国内で人気のあるブラジル産ホヘンベルギアと異なり、ジャマイカやキューバに産する別亜属である。ちなみに、この仲間の他種もだいたいこんな雰囲気である。
写真提供:ユトレヒト大学植物園(Courtesy of Eric Gouda, Botanische Tuinen Utrecht – Universiteit Utrecht)
マルフォード・フォスター/前列中央。国際ブロメリア協会の初代会長。アメリカでは“ブロメリアの父(Father of Bromeliads)”として知られ、強い影響力があった。あまり知られていないが、ブロメリアのナーサリーを運営しており、コレクションの販売も行っていた。最も偉大なブロメリア学者であるライマン・スミスと良い関係を築き、彼が採取したブロメリアがスミスによって多数記載された。マルフォーディー、フォステレラ、フォステリアーナやフォステリアーナムなど、彼にちなむブロメリアも多い。ちなみにフォスターの左側はブロメリアの普及に多大な貢献をしたヴィクトリア・パディラである。1952年の撮影。
エデュアール・モレンの胸像/モレンはその晩年の20年間、国際的にも誰もが認めるブロメリアの最高権威とされていた。写真の胸像は彼が植物学教授を務めたリエージュ大学植物園に置かれている。
写真提供:リエージュ大学植物園(Courtesy of Joseph Beaujean, Collections Institut de Botanique de L’Université de Liège)
『ベルギーの園芸』に付されたビルベルギア・ヴィッタータの多色刷石版画/モレンが編集した雑誌『ベルギーの園芸』はその美しい植物図版により高い人気を博していた。当時は購入者が自分で製本する手法が一般的であったため、欠号なく製本の良い1冊は現在とても高価である。ばらされた図版のみであれば入手は難しくないが、ブロメリアのような人気のある植物はそれなりの価格である。写真は1871年に出版された第21巻の第15図。150年近く前の図版だが、今なお色鮮やかである。
英語で著された最初のブロメリア書『ブロメリアハンドブック』の扉絵/『ベルギーの園芸』に付された図版は多色刷石版画であったが、もちろんその原画である水彩画が存在する。これらはモレンが所有していたが、彼の死後、相続税の支払いに当てるため管財人に売り渡された。モレンが所属していたベルギーのリエージュ大学は、この貴重な財産を自国が買い戻すべきだと強く思っているが、その250枚もの原画は現在、キュー植物園の貴重なコレクションになっている。『ブロメリアハンドブック』著者であるベイカーは本書の序文でこれらの原画を参考にしたと述べている。ただし、図版は一枚も転載されていない。
佐藤 淳 ATSUSHI SATO
園芸家。幼少より植物への興味を育む。筑波大学大学院にて園芸学を専攻。 学生時代より約10年間、日本ブロメリア協会の幹事を務める。